母が繰り返す言葉の謎解きを

しました。母がデイサービスに通い始め、同じ言葉を繰り返すようになりました。

「山田のカカシは山田のカカシ」これは歌だと解ったのですが、「べっぷのゆーはべっぷのゆー」「いちのやまはいちのやま」など、謎のワードを繰り返す。あんまり気になるので検索にかけてみた。「富士は日本一の山〜だった」省略しすぎだよ。ある日デイサービスからイベント表がきて、毎週ドリフの映画を見てることがわかった。「ババンババンバンバン〜」の2番の最後が「ここは南国別府の湯」だった。どうも歌の末尾を繰り返ししゃべるという法則が見えてきた。メロディついてないから歌だと思わなかった。

叔母が遊びにきた時にその話をしたら、そういえば子供の頃歌が好きだったかもと。ボケると子供に戻るって言うよね〜。私は自分の家が文化に疎い家だったことが俳優としては残念だったので、爪の垢位でも遺伝があってちょっと嬉しかった。

秋になった頃「いろりばたーはいろりばた」と言い出して、それが私がライヴで囲炉裏の部屋にちなんだ歌を歌おうと思って見つけた歌だったので驚いた、奇遇だね。歌詞にお母さん出てくるし、歌いながら母を思い出そうかな。

私の来し方についてのインタビュー記事を書いて頂く機会に恵まれました

新型コロナウイルスの感染拡大により、経営難に追い込まれた業種は少なくありません。アートの世界も、その一つ。芸の道を諦めたという声も聞こえます。磨いてきた“技芸”を披露する場が、ないのです。披露する機会が、ないのです。あったとしても、お客さんが遠慮がちでは……とも思うのです。アートは苦境にあります。しかし、そんな時だからこそ生み出せるものもあると、過去の芸術家たちが教えてくれます。アートは、歴史の圧力を受けた時にこそ花開く。今だからこその表現も、新たに生まれるかもしれません。その一縷の望みにかけて、このたびは吉田昌美さんにお話を伺いました。彼女は、俳優として歩み出すも、その道からサラリーマンへ転身、10年の時を経て再び俳優に返り咲いた方です。仕事としてのアートは、どうあればよいのか――? やさしい語りが胸に響きます。(ライター/高橋純二)

――「コロナ禍」の2020年、吉田さんのお仕事にも影響があったと思います。

吉田 公演が延期になったり中止になったりといったことが次々起こりました。経済的な影響は、ありました。今は「詩音花(しおんか)」という朗読会のライブ配信などをしています。音楽と生け花をコラボしたもので、コロナ禍だからこそ、みなに「ほっこり」していただければ、と始めました。

――私の周囲でも、アートに携わる人たちの悲痛な声が聞こえています。

吉田 つらい状況です。過酷な環境にいる人のなかには、一時的に「アルバイト主体」でしのいで、いずれ俳優業に専念できる状態にしようと考えている人もいるかもしれません。あるいは、悔し涙を流しながら「負け」を感じている人もいるかもしれない。でも、サラリーマンを長く経験した私としては、「俳優業の挫折=負け」ではないと思っています。これを機に、俳優以外の仕事に魅力を見いだす可能性だってあるかもしれない。俳優業って、定時もないですし、急な仕事が入ってきたりして明日の予定も不明だったり、経済的に不安定だったり、家族の協力なしではできなかったりします。独身の時ですら、スケジュールに振り回される時がありました。急に「明日のオーディション」の話が来て、アルバイトをドタキャンしなければならなくなったり。

――そういった大変さをもともと抱えていての、コロナ拡大。これは、アーティストにとってほんとうにつらいですね……。

吉田 たとえば、「来週月曜から1週間、撮影があるかもしれない……し、ないかもしれない……」ということがあります。で、前日に「なしです」って連絡がくると、その1週間は何もなくなり、俳優としての収入もなくなるんです。家事一つとっても、ルーチンのようにはできないので(たとえば明日までに急遽セリフを覚えなければならない、などの理由で)安定的に家族に関わることも難しい。率直にいえば、私は、家族の協力なしに成り立ちにくい俳優業が、絶対に良い仕事だとは思っていません。誇りを持ってやってはいますが、他のお仕事、業種にもたくさんの魅力があります。

――吉田さんは、プロフィールなどでも「主演からちょい役まで、マジメな公務員から殺人犯まで色々な役を担ってきた」と書かれています。「仮面ライダー」や「相棒」「恋愛偏差値」などドラマの出演も多いです。しかしそれは、実はサラリーマンから俳優に戻っての結果だったのですね。

吉田 高校生の頃から外の劇場を借りて芝居をしていて、その延長で俳優になって、文学座研究所では舞台で主役を任されたことも何回かありました。新人としては良い出だしだったと後から振り返っても思います。ですが、文学座の座員にはなれず、私は特段自分が美人でないことも自覚していたので、映像系の仕事は考えられず、事務所に所属することは思いつきもしなかった。自分で自分の可能性を閉じたんですね。その後、就職をし、やがてサラリーマン一本の生活に。10年やりました。良かったのは、サラリーマンが楽しかったことです。結果、役者とは違う人生を歩むようになりました。結婚もしました。

――お仕事は、充実されていたのですね。

吉田 夢中になりました。住宅メーカーで働くようになって、住宅展示場で間取りや住宅資金の説明をしました。インテリアコーディネーターの資格や2級建築士の資格もとって。でも、バブルがはじけて、徐々に職場環境も変わっていって。「女だから」ということで認めてもらえない実情にも直面しました。当時は、女性が総合職に就けるか就けないかの時代。産休をとることも認められにくい状況でした。女性の出世はありえなかった。こういうのって、今でも社会的な問題としてありますけど、当時は、「上に立つ人は男である」「女はどうせすぐやめる」という風潮が目に見えて強かった。仕事の実績は出せたと思っています。ただ、評価が伴わないことや、目標がなくなっていくことに疑問を感じ始めた。結局、自律神経失調症になって、サラリーマン時代にそのまま治らず、会社を辞めました。電車にも乗れない。人と約束をしてもドタキャンしてしまう。これはまずいと思い退職を考えるようになりました。

――それは……うつやパニック障害に似た症状ですよね。当時は、社会的にも理解されない症状ですよね。

吉田 無理解といっていい時代でした。でも、しっかり休みました。リハビリ的に水泳教室にも通いました。その時に思ったんです。「そういえばこの10年、忙しくてほとんど考えられなかったけど、時々――ほんとうに時々、『あたし、俳優になるはずだったんだよなあ』」って。なので、少し元気になった頃から、「まず何かをしよう」と決めて、ジャズダンスを始めました。体力に自信が持てるようになることが先決だと考えたんです。それが軌道に乗った時に、劇団を続けていた先輩に「俳優に戻りたいんで出演させてもらえませんか」って相談しました。

――わりと直球ですね(笑)。

吉田 それで、縁あって役がもらえる機会に恵まれました。まず、3本の劇をやりました。その間に、別の劇団に誘われて新たな出演も。そうこうしていたら、昔の仲間から「もし事務所に入りたいんだったら、紹介するよ」と言ってもらったんです。ある日、その事務所の社長みずから小劇場を観に来てくれて。で、その場で「眼鏡をかけて写真を撮るんだったら、入れてあげるわよ」と言われて(笑)。無事、その事務所に入ることができたんです。

――その間、収入はどうされていたのですか?

吉田 以前とは別の会社に勤め始めました。いわゆる「派遣」ですよね。でも、派遣という働き方はある面で融通が利くところもあるし、ありがたかったです。そういう環境があったので、まずは派遣と俳優の「二足のわらじ」に復活しました。住宅ローンもありますから、もちろん、いきなり俳優一本というわけにはいきません。

――その上で、最終的には俳優を主軸にした道を選ばれます。怖くはなかったですか。

吉田 賭けみたいなところは、ありますよね。特にお金に余裕があれば、「あの演出家の舞台に出たい!」という時に、参加費を払って、その人が関わる公開稽古に出られるんです。低い確率ですけど、そこで万が一演出家の目にとまれば、舞台にも出られる。とはいえ、派遣をパッとやめてしまえば、公開稽古に出る資金がそもそもなくなります。

――トレードオフのような関係性がでてくる。

吉田 演出家に見いだされて舞台に出られたなら、ギャラももらえて経済的にもプラスになりますね。

――それでも、俳優を生活の軸にしようと決められたのは、なぜでしょうか。

吉田 やっぱり、俳優業に懸命になる、意識を集中することが大事だなって思ったからです。「二足のわらじ」状態で、派遣の仕事の方をむしろ頑張ると、そちらに仕事が舞い込むようになっていく。反対に、俳優業の方に集中すると、今度は俳優の仕事が舞い込んでくる。そんな法則みたいなものを二足のわらじ時代に感じた時に、「俳優一本で行ったら、俳優としての仕事が舞い込んでくるかも」と思えたんです。はたから見れば希望的観測にすぎないかもしれません。でも、生活の基盤を徐々に俳優業に移していくことで、例えば、さっき述べた事務所のきっかけで、オーデションにたどりつけて、しかもいきなり受かって、1時間の再現ドラマの主役になることができたんですね。その後もちょい役で出続けられて、すると今度はフジテレビの連続ドラマのレギュラーにも選ばれて。

――不思議ですね。先ほど、ご結婚されたと仰っていましたが、夫の収入もあったから、俳優業に戻れた面もありますか?

吉田 夫も俳優志望だったんです。しかも、大動脈瘤で後に夫は亡くなります。若くして。そういった状況もあったので、配偶者に頼ることはできませんでした。ただ、それで必死だったからこそ、返って俳優業に注力しようと腹がくくれたんだと思います。当然ながら、夫が亡くなったあとしばらく哀しみにくれました。自殺も頭をかすめますよね。同じ体験をされた方はちらっとでもそう思われる方が多いのではないでしょうか。

――悲しいけれど、悲嘆に染まるわけにはいかない……。

吉田 哀しみに暮れてると、危ないんです。むしろ明るく行動していると、バランスがとれて生きていける。その頃に、「実は私も……」と、知人友人からつらい経験の打ち明け話をされることが増えて。そうしていくうちに俳優としてやっていく「核」みたいなものが、できたと思います。

――そのようなご経験をされた吉田さんは、いまコロナでアートが危機にさらされている事態をどう見られていますか。

吉田 あまり夢のある話はできないです。やっぱり、ある種の覚悟がないと俳優ではやっていけないと思っています。アート全般も、多くは同じでしょう。コロナ禍で“一時的に”俳優やアートの仕事を断念した人もいますが、家族と触れ合う時間ができたなら、それを大切にするのもいいかもしれないし、別の仕事に就いてそれが楽しいなら、それを続ければいいかもしれない。むしろ、今できることを思いっきり充実させて、その経験を肥やしにしていけたらいいなって思っています。コロナで感じた悲しみや苦しみは、必ず「表現」に活きてきます。それを俳優業に反映する人もいるでしょう。ですが、俳優でなくても、“一般的な社会人”だって、営業トークやプレゼンや広告制作をする表現者なんですから、コロナの経験が、そこに通じてくると思うんです。

――吉田さんご自身がそれを経験されていますね。

吉田 「一度離脱して、俳優に戻ってきて成功体験がある人は稀」ってよく言われるのですが、「戻る」のは、現実には大変です。アスリートと同じで、感覚を戻すのにも相当な苦労が要ります。そこにも覚悟は必要です。でも、それはコロナがあってもなくても、俳優をやっていればいずれ直面する壁でもあります。とにかく今は、「いま・ここ」で現実にできることを大事にしてほしいし、自身もそうしていきたいと思っています。

――本日はありがとうございました。

俳優 吉田昌美 ホームページ (masami-yoshida.com)