まだ前を向くおやじの東北旅行

母を施設に預け、がっくり疲れが出るかとおもいきや、「旅行いくか」と言い出した父。

我が家の旅行は、もう無いかなと想いながら行くことの繰り返しで、結婚する前に最後に、歩けなくなる前に、ぼける前に、と。今回ははなはだ時間的に厳しく、それでも、断ってぽっくり逝かれたら後悔すると無理矢理妹と予定併せて決行。

普段は取れない乳頭温泉があいてるとのことで、田沢湖、乳頭温泉、五能線の旅、2泊3日。鶴の湯の温泉の乳白色に心奪われ、しばしの暇でした。旅行中にフェイスブックで4年前の出来事ですと、母がぼけはじめた頃に日帰りだとだまして連れて行った箱根旅行の写真がでて、すごい家族のプレゼントになりました。(ぼけはじめると、泊まりや入浴を嫌がる症状がでます)

たまたまgotoの時期で利用させてもらいましたが、3人で10万ほどが3万になり、2万4千円のクーポンもらい、ただ同然でありがたいなと思う反面、危機に直面してもいびつなお金の使い方をするこの国を憂いたりもしました。

長いことあまり休まず続けた和菓子屋をやめた時もがっくりするかと思いきや、60半ばからパソコンをはじめ、冥途日記なるものを書き、写真をデジカメで撮って丸く切り抜いて貼り付けたりと、次々に楽しみを見つけていく父、今年88歳、米寿。

ポレポレ東中野に映画を

観にいった。今までも、たびたび行こうとしてきっかけを逃し、なんと恥ずかしながら初めて行ったのです。文化人が集まりそうなカフェを横目に地下に降り、開演前のアナウンスが情緒があっていい。

映画は相模原で市民がベトナム戦争に送る戦車を体を張って止めるという1972年の出来事のドキュメンタリー。監督は、12月公演「大人のサティスナイト」を撮ってくださった辻豊史監督。知り合いがかかわらなければ、自分で選ぶ映画ではないから、視野が広まるのが面白いところ。

まず、タイトル前に楽し気な音楽が入り、それで随所に使われる音楽に、ずっと注目、いや、注聴?してしまった。面白い!ウルトラシリーズ観てるみたい。地図もかわいい!

1番印象に残った言葉は、若い女性の「こうやって法律変えちゃうんですよね、日本て」ベトナム戦争で使う戦車を日本で作って運んでいたこともショックだが、法律変えて通しちゃったのは、昔から日本てそうなんだと、残念感。中東に爆撃する飛行機が日本から飛び立ったこともショックだった。

子供の頃、家の前の早稲田通りを学生デモ隊が通っているのを、パレードを見るようにして面白がっていた。あの頃、こういうことが起きていたんだなと。少し前の世代の熱い感じはこういうところからきているんだと。自分は戦争も安保もかかわらなかった世代だ。

「大人のサティスナイト」で私は護憲派のフォトジャーナリストを演じ、実際も護憲派なので、やりやすかったが、自分役ででている伊勢崎さんとなぜ喧嘩になるのかよくわからないままだった。この映画に出ていた伊勢崎さんは、なぜ憲法9条を変えるべきなのかを語られていて、戦争は反対でも9条を変えるべき人の意見がやっとわかった。再演があったら喧嘩できなくなっちゃうかも(笑)

今までポレポレに来なかったことで人生ちょっと損したかなと思うような、間もなく緊急事態に入る前の東京の一夜でした。

母が繰り返す言葉の謎解きを

しました。母がデイサービスに通い始め、同じ言葉を繰り返すようになりました。

「山田のカカシは山田のカカシ」これは歌だと解ったのですが、「べっぷのゆーはべっぷのゆー」「いちのやまはいちのやま」など、謎のワードを繰り返す。あんまり気になるので検索にかけてみた。「富士は日本一の山〜だった」省略しすぎだよ。ある日デイサービスからイベント表がきて、毎週ドリフの映画を見てることがわかった。「ババンババンバンバン〜」の2番の最後が「ここは南国別府の湯」だった。どうも歌の末尾を繰り返ししゃべるという法則が見えてきた。メロディついてないから歌だと思わなかった。

叔母が遊びにきた時にその話をしたら、そういえば子供の頃歌が好きだったかもと。ボケると子供に戻るって言うよね〜。私は自分の家が文化に疎い家だったことが俳優としては残念だったので、爪の垢位でも遺伝があってちょっと嬉しかった。

秋になった頃「いろりばたーはいろりばた」と言い出して、それが私がライヴで囲炉裏の部屋にちなんだ歌を歌おうと思って見つけた歌だったので驚いた、奇遇だね。歌詞にお母さん出てくるし、歌いながら母を思い出そうかな。

私の来し方についてのインタビュー記事を書いて頂く機会に恵まれました

新型コロナウイルスの感染拡大により、経営難に追い込まれた業種は少なくありません。アートの世界も、その一つ。芸の道を諦めたという声も聞こえます。磨いてきた“技芸”を披露する場が、ないのです。披露する機会が、ないのです。あったとしても、お客さんが遠慮がちでは……とも思うのです。アートは苦境にあります。しかし、そんな時だからこそ生み出せるものもあると、過去の芸術家たちが教えてくれます。アートは、歴史の圧力を受けた時にこそ花開く。今だからこその表現も、新たに生まれるかもしれません。その一縷の望みにかけて、このたびは吉田昌美さんにお話を伺いました。彼女は、俳優として歩み出すも、その道からサラリーマンへ転身、10年の時を経て再び俳優に返り咲いた方です。仕事としてのアートは、どうあればよいのか――? やさしい語りが胸に響きます。(ライター/高橋純二)

――「コロナ禍」の2020年、吉田さんのお仕事にも影響があったと思います。

吉田 公演が延期になったり中止になったりといったことが次々起こりました。経済的な影響は、ありました。今は「詩音花(しおんか)」という朗読会のライブ配信などをしています。音楽と生け花をコラボしたもので、コロナ禍だからこそ、みなに「ほっこり」していただければ、と始めました。

――私の周囲でも、アートに携わる人たちの悲痛な声が聞こえています。

吉田 つらい状況です。過酷な環境にいる人のなかには、一時的に「アルバイト主体」でしのいで、いずれ俳優業に専念できる状態にしようと考えている人もいるかもしれません。あるいは、悔し涙を流しながら「負け」を感じている人もいるかもしれない。でも、サラリーマンを長く経験した私としては、「俳優業の挫折=負け」ではないと思っています。これを機に、俳優以外の仕事に魅力を見いだす可能性だってあるかもしれない。俳優業って、定時もないですし、急な仕事が入ってきたりして明日の予定も不明だったり、経済的に不安定だったり、家族の協力なしではできなかったりします。独身の時ですら、スケジュールに振り回される時がありました。急に「明日のオーディション」の話が来て、アルバイトをドタキャンしなければならなくなったり。

――そういった大変さをもともと抱えていての、コロナ拡大。これは、アーティストにとってほんとうにつらいですね……。

吉田 たとえば、「来週月曜から1週間、撮影があるかもしれない……し、ないかもしれない……」ということがあります。で、前日に「なしです」って連絡がくると、その1週間は何もなくなり、俳優としての収入もなくなるんです。家事一つとっても、ルーチンのようにはできないので(たとえば明日までに急遽セリフを覚えなければならない、などの理由で)安定的に家族に関わることも難しい。率直にいえば、私は、家族の協力なしに成り立ちにくい俳優業が、絶対に良い仕事だとは思っていません。誇りを持ってやってはいますが、他のお仕事、業種にもたくさんの魅力があります。

――吉田さんは、プロフィールなどでも「主演からちょい役まで、マジメな公務員から殺人犯まで色々な役を担ってきた」と書かれています。「仮面ライダー」や「相棒」「恋愛偏差値」などドラマの出演も多いです。しかしそれは、実はサラリーマンから俳優に戻っての結果だったのですね。

吉田 高校生の頃から外の劇場を借りて芝居をしていて、その延長で俳優になって、文学座研究所では舞台で主役を任されたことも何回かありました。新人としては良い出だしだったと後から振り返っても思います。ですが、文学座の座員にはなれず、私は特段自分が美人でないことも自覚していたので、映像系の仕事は考えられず、事務所に所属することは思いつきもしなかった。自分で自分の可能性を閉じたんですね。その後、就職をし、やがてサラリーマン一本の生活に。10年やりました。良かったのは、サラリーマンが楽しかったことです。結果、役者とは違う人生を歩むようになりました。結婚もしました。

――お仕事は、充実されていたのですね。

吉田 夢中になりました。住宅メーカーで働くようになって、住宅展示場で間取りや住宅資金の説明をしました。インテリアコーディネーターの資格や2級建築士の資格もとって。でも、バブルがはじけて、徐々に職場環境も変わっていって。「女だから」ということで認めてもらえない実情にも直面しました。当時は、女性が総合職に就けるか就けないかの時代。産休をとることも認められにくい状況でした。女性の出世はありえなかった。こういうのって、今でも社会的な問題としてありますけど、当時は、「上に立つ人は男である」「女はどうせすぐやめる」という風潮が目に見えて強かった。仕事の実績は出せたと思っています。ただ、評価が伴わないことや、目標がなくなっていくことに疑問を感じ始めた。結局、自律神経失調症になって、サラリーマン時代にそのまま治らず、会社を辞めました。電車にも乗れない。人と約束をしてもドタキャンしてしまう。これはまずいと思い退職を考えるようになりました。

――それは……うつやパニック障害に似た症状ですよね。当時は、社会的にも理解されない症状ですよね。

吉田 無理解といっていい時代でした。でも、しっかり休みました。リハビリ的に水泳教室にも通いました。その時に思ったんです。「そういえばこの10年、忙しくてほとんど考えられなかったけど、時々――ほんとうに時々、『あたし、俳優になるはずだったんだよなあ』」って。なので、少し元気になった頃から、「まず何かをしよう」と決めて、ジャズダンスを始めました。体力に自信が持てるようになることが先決だと考えたんです。それが軌道に乗った時に、劇団を続けていた先輩に「俳優に戻りたいんで出演させてもらえませんか」って相談しました。

――わりと直球ですね(笑)。

吉田 それで、縁あって役がもらえる機会に恵まれました。まず、3本の劇をやりました。その間に、別の劇団に誘われて新たな出演も。そうこうしていたら、昔の仲間から「もし事務所に入りたいんだったら、紹介するよ」と言ってもらったんです。ある日、その事務所の社長みずから小劇場を観に来てくれて。で、その場で「眼鏡をかけて写真を撮るんだったら、入れてあげるわよ」と言われて(笑)。無事、その事務所に入ることができたんです。

――その間、収入はどうされていたのですか?

吉田 以前とは別の会社に勤め始めました。いわゆる「派遣」ですよね。でも、派遣という働き方はある面で融通が利くところもあるし、ありがたかったです。そういう環境があったので、まずは派遣と俳優の「二足のわらじ」に復活しました。住宅ローンもありますから、もちろん、いきなり俳優一本というわけにはいきません。

――その上で、最終的には俳優を主軸にした道を選ばれます。怖くはなかったですか。

吉田 賭けみたいなところは、ありますよね。特にお金に余裕があれば、「あの演出家の舞台に出たい!」という時に、参加費を払って、その人が関わる公開稽古に出られるんです。低い確率ですけど、そこで万が一演出家の目にとまれば、舞台にも出られる。とはいえ、派遣をパッとやめてしまえば、公開稽古に出る資金がそもそもなくなります。

――トレードオフのような関係性がでてくる。

吉田 演出家に見いだされて舞台に出られたなら、ギャラももらえて経済的にもプラスになりますね。

――それでも、俳優を生活の軸にしようと決められたのは、なぜでしょうか。

吉田 やっぱり、俳優業に懸命になる、意識を集中することが大事だなって思ったからです。「二足のわらじ」状態で、派遣の仕事の方をむしろ頑張ると、そちらに仕事が舞い込むようになっていく。反対に、俳優業の方に集中すると、今度は俳優の仕事が舞い込んでくる。そんな法則みたいなものを二足のわらじ時代に感じた時に、「俳優一本で行ったら、俳優としての仕事が舞い込んでくるかも」と思えたんです。はたから見れば希望的観測にすぎないかもしれません。でも、生活の基盤を徐々に俳優業に移していくことで、例えば、さっき述べた事務所のきっかけで、オーデションにたどりつけて、しかもいきなり受かって、1時間の再現ドラマの主役になることができたんですね。その後もちょい役で出続けられて、すると今度はフジテレビの連続ドラマのレギュラーにも選ばれて。

――不思議ですね。先ほど、ご結婚されたと仰っていましたが、夫の収入もあったから、俳優業に戻れた面もありますか?

吉田 夫も俳優志望だったんです。しかも、大動脈瘤で後に夫は亡くなります。若くして。そういった状況もあったので、配偶者に頼ることはできませんでした。ただ、それで必死だったからこそ、返って俳優業に注力しようと腹がくくれたんだと思います。当然ながら、夫が亡くなったあとしばらく哀しみにくれました。自殺も頭をかすめますよね。同じ体験をされた方はちらっとでもそう思われる方が多いのではないでしょうか。

――悲しいけれど、悲嘆に染まるわけにはいかない……。

吉田 哀しみに暮れてると、危ないんです。むしろ明るく行動していると、バランスがとれて生きていける。その頃に、「実は私も……」と、知人友人からつらい経験の打ち明け話をされることが増えて。そうしていくうちに俳優としてやっていく「核」みたいなものが、できたと思います。

――そのようなご経験をされた吉田さんは、いまコロナでアートが危機にさらされている事態をどう見られていますか。

吉田 あまり夢のある話はできないです。やっぱり、ある種の覚悟がないと俳優ではやっていけないと思っています。アート全般も、多くは同じでしょう。コロナ禍で“一時的に”俳優やアートの仕事を断念した人もいますが、家族と触れ合う時間ができたなら、それを大切にするのもいいかもしれないし、別の仕事に就いてそれが楽しいなら、それを続ければいいかもしれない。むしろ、今できることを思いっきり充実させて、その経験を肥やしにしていけたらいいなって思っています。コロナで感じた悲しみや苦しみは、必ず「表現」に活きてきます。それを俳優業に反映する人もいるでしょう。ですが、俳優でなくても、“一般的な社会人”だって、営業トークやプレゼンや広告制作をする表現者なんですから、コロナの経験が、そこに通じてくると思うんです。

――吉田さんご自身がそれを経験されていますね。

吉田 「一度離脱して、俳優に戻ってきて成功体験がある人は稀」ってよく言われるのですが、「戻る」のは、現実には大変です。アスリートと同じで、感覚を戻すのにも相当な苦労が要ります。そこにも覚悟は必要です。でも、それはコロナがあってもなくても、俳優をやっていればいずれ直面する壁でもあります。とにかく今は、「いま・ここ」で現実にできることを大事にしてほしいし、自身もそうしていきたいと思っています。

――本日はありがとうございました。

俳優 吉田昌美 ホームページ (masami-yoshida.com)

俳優が身近な小さな幸せを大事にする気分になるコロナの中

母を介護施設に預けた。本当は母と一緒にいる選択をするべきだったのかと今になっても悩んでいる。家から朗読の配信を毎週していこうと思ってる矢先に劇場でミュージカルに出ることになった。身近な小さな幸せを選択したい気持ちと現実のはざまでやるせない気分。自粛と活動、身近な幸せと社会的成功、みなさんどう折り合いをつけてますか?

50になると今までの人生がひとつにまとまるという。ミュージカルは30代のダンス、40代のシャンソンが、10代から長く続けた演技にまとまったということだろうか。

2014年からひとりで朗読ライヴをはじめた。

そのきっかけは周りの方々からいただいた気がする。

2010年夏に夫が亡くなった時、

多くの方に声をかけていただいた。
なぐさめの言葉とともに、実は私もねと、辛かったこと、家族のことを話してくださる方が多かった。みんな元気に幸せそうに生きてるけど、実はいろいろ抱えているんだなと感じた。そのころテレビは騒がしく説明過多に感じ、もっとゆったりと脳がうごいてほっこりできる作品があれば、しんどい時に涙で浄化され、次の日から少し柔らかい気持ちで生きられるのではないか、それが自分にできることではないかと思った。最近知ったのだが、そういうの涙活(るいかつ)というらしい。

シャンソンを歌い始めたのは40才くらいから。シャンソンも人の気持ちや人生、自然に寄り添う歌詞が実は多い。そして朗読作品を探している中でシャンソンの歌詞に近いテーマで日本の詩が書かれていると気づき、組み合わせてみることにした。20代インテリアコーディネーターをしていたからか上演する空間演出もする。毎回ご一緒してくださるギターの関根彰良さん、東大文学部卒だからか、ミュージシャンだが文章読解力がすごい。そして、テーマに沿った花を活けてくれる草月流華道家森田麗游さん、私の文学座同期でもあり、凛としたたたずまいでパフォーマンスしてくれる。

それで詩音花(しおんか)プロデュースというグループ名をつけた。

俳優としてのポリシーは俳優の演技が作品の中に埋没することで、ストーリーで新鮮な感動を届けること。

吉田昌美ホームページ https://masami-yoshida.com/

母の感謝状

敬老の日にデイサービスの方が母に感謝状とプレゼントをくださった。

2、3日した頃、母が「読んでください」という。読むのは得意なので、感謝状っぽく読んであげたら、途中で「いぇいえーい!」とガッツポーズ。いまだかつてそんな母を見たことがなくてびっくり‼️よっぽど嬉しかったんだろうな〜。自営業の妻は褒められる事も表彰されることもなかったのかもなぁ。

13時間歩き続けて高田馬場から田無まで歩いちゃって、次の日全然へっちゃらだった時も、人間疲れたもうダメと思うのは脳が思っちゃうだけで、覚えてなきゃ大丈夫なのかと思ったけど、今回のガッツポーズも自分はこんな人って思い込みがなくなると湧き出てくる。ずっと嫌いだったコーヒーもチョコも今は大好きで、コーヒーは毎日飲んでいる。

ボケから学ぶこと多い。

コロナで新規入所者面接ができないらしく、80人待ちだった特養が、いつもショートステイを利用してる母のところに回ってきた。急なことで家族も動揺したが、預けるにあたり、家族の写真とこの感謝状を持たせた。

コロナで面会が無しなのだ。忘れちゃう前に会いたい。

タクシードライバーのコロナ禍インタビュー

NHKでたまたま見た番組。休憩中のタクシードライバーのインタビュー。さぞや不景気で大変と思いきや、前向きな人が多いのに驚いた。不景気でも成績のいい人はいいからと先輩のやり方を真似してデータノートを作る人。この時期の転職を失敗と思わず、やっといやな人間関係から抜け出せたので、サラリーマン時代の経験を生かして、仕事のやり方を構築する人。コロナの時期にいかに車内を快適にするか工夫してる人。新卒女子で観光タクシーの夢をすっごく明るく語る人。その想いに涙出た。

もちろん、収入が減って転職を考えているという人もいた。前向きな意見を多めに放送したのだと思うが、端からみんな大変と思うのとは違うものだ。私も、はやく普通に舞台ができるようになればいいわねと言われて面食らうことがある。どんどん新たなビジネスが生まれていて、以前通りがいいとは必ずしも思ってないから、そういわれてびっくりするのだ。人生の中でも何度かっていうエネルギーの中にいる。これはタクシーの人も同じだと思うが、金銭的に上昇しているかどうかは現段階ではさっぱりわからない。ただ、変化してよりよくしていこうと思っているというだけ。視点を変えればチャンスなのだ。

芝居はまだリモート、配信という選択肢があるけど、タクシーにはない。それでもこれだけ生き生き働いている人がいるのに勇気をもらった。俳優も視野を広げていろいろチャレンジしたらいい。人生をあきらめないで。

ZOOMヨガからのもろもろ

今まで配信する側だったり、コンサートを視聴したり、ZOOMコンサート参加、ZOOMミーティング飲み会をすることはあったが、通っていたヨガスタジオの参加型のZOOMヨガ初体験。今までやった中で一番生との違いを感じた。

今までのものは、画面に集中するので、テレビや映画と同じで脳が聴覚や視覚の補填をしてくれて、場合によっては温度や味覚嗅覚も補填してくれて、勝手にその気になることができると感じた。ヨガは部屋が散らかっていたり、空気がよどんでると、明らかにスタジオに行ったような清涼感がなかった。なので、本日二回目。部屋に何も無いと思い込んでみた(笑)だいぶよかった( ^^) _U~~こうやって、だんだん、うまく利用できるようになるのかな。

いずれにしろ、化粧や支度をする時間と移動時間が節約できることが受取手の配信のメリットですが、ヨガが典型的なように、住居環境、家族環境により、快適度がかなり違うのかもしれません。私は埼玉から東京まで出て行かずにすむのは大きいかな。

生が今までのように人が集まらなくて、配信がどんな風に普及していくのかわからないですが受ける側もやる側も選択肢が増えたということでしょう。共存していく。私はヨガも家だけでしか受講しないというわけではなく、出かけた時にスタジオに行ってみようと思っていて、安い予算と少ない時間でも受けられる選択肢に感謝です。で、あとは事業として成り立つのか各分野がってことですね。継続可能か。エンターテーメント系は両方だと、価格も広い層に、地域も広い層にとメリットもあると思います。教える側も、離れた場所にいる方も対象になるから同様でしょうか。配信のほうが価格が全般的に安いので、大学生から学費に不満がでるのもわかります。配信の集客が増えて効率化したら、安価でもやっていけるようになるのでしょうが、分野、やり方でそれぞれで状況が違うでしょうね。過渡期で2年くらい経つと目途が立つでしょうか。

価値観もますます多様化して選択肢が広がる中で、自分がどういう生活をしていくか。どういう仕事のしかたをしていくか、しばらく模索ですね。コロナで作品そのものも受け取り方が変わってきました。それも模索しながら作品も変わっていくでしょう。

最近、アーチスト仲間で短めのライブ配信する人が増えてきました。私もちらっと考えています。まだ実行に移すのに一考中。あいかわらず、石橋をたたいてます。このたたきすぎる癖といきなり突っ走る両方、年齢が上がるにつれ、怖いものがなくなって突っ走ることが増えてきました。

水泳教室の子供たち

とてもひさしぶりにプールで水泳を。脇で子供達が水泳教室。その光景はコーチが透明マスクをしている以外は以前のままだ。見学の父兄はマスク姿。だれも感染者がいなければ、距離をとって無くても移らない。子供達は過去の記憶がないからマスクは当たり前になっていくのか。バブルを知らない若者が派手に遊べないことに疑問を持たないのと同じか。

俳優という職業はずいぶんこの半年で変わった。一番アナログだった職業がすっごいデジタルに。変わってない人はお休み中ということか。それぞれ職業によりさまざまで今まで通り毎日仕事に通う人もいれば、ずっと家にいる人もいるし、まったく収入を失った人もいる。だが、はしゃいでいる子供たちを見ているとコロナはなかったことのように思える。

水泳は30代、俳優にもどるための体力作りで熱心に通った時期があった。このジムへは踊れる体を維持するために40代によく通った。そんな過去の自分を感じながら、水の中で自分の人生が大きく変わっているのだと実感した。そう思いながら泳ぎ続けた。

せっかく総理が変わるなら、今の日本の構造もかわるといい。周りを見て意見を言うのをあきらめるのでなく、意見を尊重する世の中に。悪いとわかってても忖度するのがいいかのような流れだ。自死の訴えさえむなしい。マスクは当たり前でもいいから、子供たちが自由で夢の持てる世の中であってほしい。頑張れば報われると頑張れる気になる社会であってほしい。

文化庁の補助金申請は、これは謝礼費でなく雑役務費に、これは消耗品にと一か月以上放置された後に修正連絡。申請からもう二か月経つ。これは補助金をもらう審査でなく、まだ、対象に当たるかどうかの審査だ。そんな細かいことに時間をかける意味がわからない。

子供たちの生きていく社会、何年後かの自分たちの生活を決めるのは、社会の中枢にいる大人たちで、一向に内向きのまま。何度目かのチャンスを今回も逃すのかと残念な思いもある。誰もいいと思っていないことは、トップの志ひとつで確実に変化する。コロナのデジタル化もいいほうに変わるきっかけになるといい。今後に期待したい。

写真は明日の神話

母の笑顔

母はそもそもは悲観主義、心配性、怒ってばかりの印象でした。なのでうまく付き合えなかった。ボケてから笑顔が多くなり、若い頃には見られなかった笑顔をするようになった。心配なことを覚えてられないのがかえっていいのでしょう。今は私の顔を見ると笑顔になって楽しそうにするので、一緒にいるのが楽しい。私は子育てをしたことはありませんが、子供の笑顔に助けられるっていうのはこういうことなのかなと思っています。

介護は大変という一言で語られることが多いけど、そう単純なものでもない。施設に入れると連絡が来た時もちょっと複雑な気分でした。入れたい時に入れられるわけではない今の日本の現状では、現状維持を選択するにはおそろしく、決めるしかないのでしょうが、コロナで面会ができなくなってしまうので、今生の別れ的な気分でもあります。

この笑顔を見ていられるのはあと1ヶ月位でしょうか。